夜は通れません
まず最初にご紹介、からきだの道の会という会が有り、そこの最初にはこのような言葉で紹介されてます。からきだの道は、多摩ニュータウン開発に伴う唐木田地区の新しいまちづくりの一環として、自然の丘陵地形を活かして整備された緑地です。緑地内には昔の唐木田の生活道路を一部活用した散策路があり、自然とふれあえるだけでなく、随所に古き良き名残りを感じることができます。との事です。
で、ここからは私の下手な文言です。ここは多摩市の住宅街の前にある唐木田の道入り口です。唐木田の道とは昔で言う唐木田の谷戸の周辺を散策できる緑道です。
いや~~ 本当に静かな住宅街です。緑も多く駅も徒歩圏なので住むには良いところですから当然ですね。この住宅街のどこかにコインパーキングが有った気がします。今も有るか?もう家が建ってるかもしれませんね。
この道の入り口には「からきだ百本シダレ」の文字がありその手前には「ヤエザクラの原っぱ」という空間があります。桜の季節にはとても綺麗な場所だと思います。行ったのは5月、ただの原っぱになってました( ´艸`)
入り口にある案内板です。雰囲気だけでも伝わればいいのですが。
多摩市 小山田城主の側室が居た場所
唐木田の道の中に有る一角です。ちょっとした休憩所みたいなベンチがあり、そこには「砦山」と書かれたボードが有り小山田城主の側室が居たとされる場所とあります。そこへいくまでは何だか殺風景な山道と言った感じですが、その部分だけは綺麗なアジサイが咲き「側室が居た場所」何となくそんな雰囲気を感じさせられるような気がしました。まあ、アジサイはこの遊歩道を作った時に植えたのだと思いますが、細い道に綺麗にさいてます。で、小山田城主とは?で、町田の大泉寺に小山田高家公顕彰碑がありそこにはこう書かれてます⇒源平争乱の時代に小山田一族は、源頼朝の家人として活躍し、平氏滅亡のあと、建久元年(1190年)頼朝初の京都入洛に際して、有重の子三郎重成、四郎重朝、五郎行重は、畠山重忠らとともに先陣の隋兵として従った。頼朝亡きあと、北条時政の誹りを受け、元久2年(1205年)三郎重成、四郎重朝とその子等は、将軍実朝により二俣川に於いて謀殺された。 ここに小山田一族は離散した。 元弘3年(1333年)小山田一族の裔小山田太郎高家、新田義貞の侍大将として登場。小山田城を固守していた北條泰家の軍を追って鎌倉に攻め入り、北條一族を討滅した。ここに建武中興成る。その後、足利尊氏が叛くに及んで、高家は湊川の合戦に奮戦の折、主君義貞 生田の森で足利軍の矢ぶすまに立ちつくすを見て、高家おのれの馬に乗せ奉りて、主君の危急を救い、自らは処女塚で壮烈な戦死を遂げる。時に延元元年(1336年)5月25日と太平記は記している。との事です。
こんな感じの道が続きます
ここから下がる道もアジサイが綺麗
この先は展望台と寺入りの湧水
多摩市 からきだの道の後編
砦山はとても良い感じでした、その道を真っすぐ行くと可愛い公園、展望台、寺の入りの湧水となります。この公園は可愛いという形容がぴったりの小さいけど綺麗で可愛い公園です。が、展望台には驚きと言うか笑いでした。四方が木で覆われていて何も見えない!砦山の方がはるかに景色が良かったと思います。ただ、この道沿いはすぐ隣がず~~~~っと住宅街で、たぶん展望台に樹木がなければ、民家の窓が丸見え状態のような気がします。それでかな?とも思いましたが、管理している(たぶん多摩市)方に聞いたわけでもないのでわかりません。そして、寺の入りの湧水、私が一番期待していた場所ですが、残念ながら湧水の池と呼ぶにはちょっと無理があるくらい、ん~^表現は難しいですが、透明感の無い水たまりのようでした。ただ、可愛いカモが2羽、小さい池の中で泳いでました。これは可愛い( ´艸`)
道の途中に有る公園、
トイレも有りとても綺麗で可愛い公園
回りは住宅街です
雨のせい?よくわかりませんが、
かなり水が濁っていて(汚れていて)
いだいていた湧水とはちょっと違っていた
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@警備員 跡野 祭の料理サイト